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グロースをデザインするひと

物語の不在と「母」/『崖の上のポニョ』

昨晩ようやく『崖の上のポニョ』を観てきた。最初はわざわざ映画館で観る予定は無かったんだけど、観た人たちのあまりのガッカリっぷり/残念っぷりに「逆にこれは観なければ」と思い観に行くことに*1


とりあえず観終えて感じたのはやはり、一般的に宮崎駿の傑作とされている『天空の城ラピュタ』や『魔女の宅急便』などの作品とこの『崖の上のポニョ』とでは全然違う作品だな、ということ。ではその違いは何なのか?
それはこの『崖の上のポニョ』が「ビルディングスロマン」ではない、ということだろう。ビルディングスロマンとは、大雑把に言ってしまえば「困難に立ち向かう主人公とその成長」を描いた作品である。しかし『崖の上のポニョ』はそうではない。
主人公のソウスケもヒロインのポニョも始めから終わりまで内面的には何も変わらない。ただの子どもである。ただただ、ソウイチ/ポニョが好きだというだけの子どもである。成長も無い。トンネルを通り抜けるシーンがえらく象徴的だったが、あそこでソウイチが特に成長したわけではなく、もとからある「ポニョが好き」という思いのまま行動しただけである。
たぶん、今作の中でも物語を描こうとすればしっかり描けたはずだ。フジモトはなぜ人間を捨ててあんなことをしてるのか?コウイチ(ソウスケの父)はあの後どうやって戻って来たのか?あの後あの世界はどうなっていくのか?そもそもポニョは何なのか?等々。しかし私には宮崎駿が「あえて」そういった物語性を排除したかのように思える。
そう。この作品には物語性が存在しないのである。「物語が存在しない映画」というフレーズ自体で矛盾を感じてしまう人も多いだろうが、そういった人たちが特に期待を裏切られてたんではないかと思う。他の方の感想の中で「ベクシンスキの絵画みたいだ」*2という意見があったけどまさにそんな感じの作品だったと思う。あるいはデヴィッド・リンチ的とでも言おうか。まともな物語を期待して『マルホランドドライブ』を観たようなもんである。大塚英志が、

ところで人が<物語>を欲するのは<物語>を通じて自分をとり囲む<世界>を理解するモデルだからである。(中略)いわば人間は<物語>に縛られているのであり、その良し悪しは別とし<物語>に縛られることで安定するのだ。*3

と指摘するように基本的に人は物語を通じて世界を理解する。それゆえ絵画にしろ映画にしろ、物語性を欠いた作品は理解に苦しまれ、少なくとも万人受けはしない。言葉を変えれば統合失調症的とでも言おうか。統合失調症は「物語を欠いた病気」とたまに言われるが、そういった作品を理解するのは統合失調症患者の言動を理解する行為に似ているのかもしれない。


崖の上のポニョ』が秀作だ駄作だという話ではなく「これまで素晴らしい物語を描いてきた宮崎駿が今回は物語を描かなかった。」「それが宮崎駿の描く物語を期待して観に行った人たちをガッカリさせた」というのが作品を観て/作品を観た人の感想に触れて感じた私見である。



さて、では宮崎駿は何故に物語性を排除したのだろうか?思うに、それはポニョが「母」(あるいは「母性」)の話だからである。
斎藤環も指摘する通り母性(=家庭)と物語は対立する関係にある。

「家庭の機能」がなんのために存在するか考えてみよう。そう、それは何よりも、円滑な日常生活を営むためにある。家族関係は、個人の社会的アイデンティティと心身の安定に寄与しつつ、生殖と養育を通じて、血縁と価値観の持続可能性を高める。日常、安定、血縁、価値観。ここにすでに出された四つの単語をみるだけでも、いかにそれらが「物語」の主軸となりにくいかは容易にみてとれるだろう。(中略)機能する家族、すなわち「幸福な家族」の物語は、その形成に失敗し続けることでしか、物語の主題たり得ないことは確かだろう。*4

「母の不在/喪失」は物語を生み出すが「理想的な母」は物語と成りえないのである。宮崎駿が今作で描きたかったのはこういった「幸福な家族」「理想的な母」だったのではなかろうか。
ここで言う「母」とは現代社会的な「母」(例えばニュースで頭の悪いコメンテーターが「母親失格だ」なんて言うときに想定されている「母」)ではなくユング心理学で言う「グレートマザー」としての「母」である。ポニョの母親がそれにほぼイコールの存在であろうか。グレートマザーと海(水)との連想も多くの神話でみられるものであろう。
作中でソウスケの家族がお互いを名前で呼び合っていたのはそういった「現代社会的な母」のイメージを回避したかったのではないのだろうか。
先に引用した斎藤環

母性はどこかに存在する母親原型と常時接続中の端末のように理解されていないだろうか。

と言ってるが、一個人としての人格を持ったソウスケの母とグレートマザーとしてのポニョの母があそこで二人きりで何を語っていたのか、興味深いところである。


ソウスケ/ポニョが中心には位置づけられているが、その周辺でそれを包み込む「理想的な母」「幸福な家族」が今回のテーマであったとするならば、そこから物語性を排除した宮崎駿の意図が理解できるような気がする。その上で、やはり「物語」抜きでは伝えきれなかった、というのが実状であろうか。
宮崎駿さんが今作を「子どものための映画」と言ってるのもその辺があるのかもしれない。物語とか関係なく「母の素晴らしさ」を感じて欲しい、と。しかしその子どもたちにも受けが悪かった(らしい)っていうのは、子どもたちが既に物語ソフトに毒されてしまってるのかそれとももっと別に問題があるのか。



とりあえずまだ観てない人は「良い物語」を期待しているのなら観に行かない方が良いかな。物語とかなんとか置いといてそこから何かを感じたい、という人には充分オススメ。『崖の上のポニョ』、私も好きな作品です。



それはそれとて宮崎駿さんのロリコンっぷりが今回も酷かったなー。あまりの病気っぷりに何度か吹いた。病気っぽいシーン盛りだくさん。音声MADに使えそうな素材もいっぱいあったし。さすが宮崎勤と並び称させるロリコンですな。

*1:しかしぶっちゃけ、一番のきっかけになったのはクトゥルフ神話の観点から考察したこのエントリ。面白すぎw

*2:クトゥルー神話に絡めるまでもなくヤバい - 『崖の上のポニョ』/宮崎駿

*3:

定本 物語消費論 (角川文庫)

定本 物語消費論 (角川文庫)

*4:

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター